eccentricitystandardとの調和---

今回の内科学会総会でポリペクトミーおよびPTCAのcon & pro discussionがなされた.特に、この両方面の医療技術の発達はめざましく、それらを専門としている多くの医師は、単に「ポリープがあるからポリペクトミーをする」、「冠動脈狭窄をきれいにするためにPTCAが必要である」という論理で治療している医師たちが目立つ.では初期の病変を見つけるため、どのような患者に冠状動脈造影や大腸ファイバーをすればよいか、またそれらの病変を放置した場合の自然歴を彼らは知っているのだろうか.同時に、ごく初期の病変を見つけるためには、多くの正常な症例を頻回に検査しなければならないことも認識しなければならない.

現在、各検査、治療の適応、禁忌は、医療効率を考慮して決められている.”standard(標準的)”な医師はその疾患の自然歴、他の合併疾患との調和、家族のなかの患者の状況等を考慮し、検査、治療する.しかし、これら標準的な医師のみでは科学の進歩はない.いつの時代でも、禁忌に対して勇敢に検査、治療をしていった少数のeccentricな医師のおかげで、現代医学は進歩した.1996年の現在において、急性心筋梗塞にPTCAを選択することに反対する人はあまりいないだろう.しかし、20年前では、急性心筋梗塞、不安定狭心症では冠状動脈造影は禁忌であり、あえて施行した人は強く非難された.カテーテル治療をはじめとする今日の循環器学にとっては、この掟を破った少数のeccentricな医師の果たした役割は大きい.近年は、これらeccentricな医師が検査、治療の主導をとることが多い.彼らが主導をとると適応がどんどん拡大され、医療費は高騰し、医療効果は低下する.しかし、逆に、標準的な医師が主導をとれば、医療の無駄は少なくなるが医学の進歩はなくなる.eccentricな医師は、他科の医師より相談を受けたとき、自分の専門分野のあらゆる検査を施行し、発生率が低くとも彼らが専門とするまれな病気までをもみのがさまいという姿勢をとることが多い.

循環器領域においては、薬物療法で狭心症が消失し、運動負荷が陰性の症例を血管造影すべきかどうかを考えてみよう.血管造影をしないことにより1枝病変は見逃すかも知れぬ.しかし、1枝病変の内科療法の予後がよいということを認識した上で、「この症例では1枝病変は否定できないが、あってもその予後がよいのであえてそのような病変を見つけようとしない」という考え方ならそれでよい.逆にごく初期の血管病変を見つけようとすれば、そのためには多くの正常であると思われる症例にまでスクリーニング検査のような感覚で血管造影をしなくてはならない.また運動負荷テストでは、トレッドミルよりタリウムシンチのほうが精度は高い.外来で狭心症を疑った患者に全例、高価なタリウムシンチをするのか.施設においても統一見解をだすのは難しいが、我々は日本全体の医療費等を考慮して決定しなければいけない.しかし、アメリカのように国が医療を規制しはじめると、保険適応内の医療しかできなくなり、eccentricな医者は生きれなくなる.その結果、医学の進歩は遅れると思われる.この2つの両極端のタイプの医師が調和をとることで医学は進歩していくのであると思われる.しかし、大多数は標準的な医師でなければならない.

現在の卒後内科研修医制度は、各専門内科を研修医が一定期間まわるスーパーローテーションシステムが主である.しかし、各専門内科での臨床は、あまり患者の話をきかないで、まず始めに冠状動脈造影や胃カメラから患者にアプローチしていることが多い.これを、若い研修医がみればそれがすべての正しく、他の方法はないと錯覚してしまう.eccentricな医師はごくわずかでよい.多くの研修医には適応と禁忌が理解でき、まず十分な病歴がとれ身体所見の記載ができることを目標とし、まず検査から始めるということのないような標準的な医師像が望まれる.そうなるためには、専門医へのトレーニングとは異なった、一般内科医を対象とするカリキュラムを実行できる多くの医師が必要である.